【川 口 の 産 業】

1.はじめに
 「鋳物」も「植木」もその発展の歴史をひもとくと、川口に昔からあった様々な地場産業の一つであり、歴史的な要因と「東京」(古くは江戸)に隣接いているという条件、つまり大消費地が近くにあるという地理的な要因があったからこそ今日の姿になっていることがわかる。
 ところが、その地理的な条件により、川口市もここ数十年の間ベットタウン化が進んできた。そのために、かつての鋳物工場はマンションにかわり、水田や畑だった所には住宅地や商店街・郊外型の大規模店舗が建てられ、景観がまったく変わってしまた地域が拡大している。
2.川口の地形
 その地域の産業について理解しようとするとき、自然環境に着眼することが必要である。ここでは、川口の産業について、その地域的特色を理解する上で重要になるであろう川口の地形について見ていく。
 川口の地形は、市の南を荒川、ほぼ中央を芝川、東端に綾瀬川がそれぞれ流れる低地と台地とから成り立っている。台地は市域の北東部にあり「大宮台地」の南東部に位置している。この台地というのは太古、富士山などの噴火による火山灰が堆積している土地であり、関東ローム層といわれている。神根・安行・新郷・戸塚・芝の一部がこれにあたるが、その中で木曽呂・神戸・西新井宿周辺ならびに東部地区の東貝塚周辺が最も高い地域で、海抜20m程になっている。これらの台地には小さな谷が多く、起伏に富んだ地形をなしている(縄文時代の遺跡=貝塚は、このような場所に分布している)。地形図(『かわぐち』より)
一方、市域の南部一帯に広がる低地は、川口市全体のおよそ70%を占めている。この低地は前に挙げた3つの川などによる沖積平野である。また、古荒川などによって形成された小高い自然堤防が、各地に発達しているが、その一部が芝川をふさいだために見沼の湿地が形成される要因となったといわれる。              
3.産業の特色
 「鋳物の街」川口は、明治以来の歴史との関連の中で大きな発展をとげ、県下最大の産業都市として形態を示してきた。しかし、オイルショック以降その生産は低迷期を向かえるようになる。反面、人口は荒川を隔てて東京都に隣接するという地理的条件によって、増加傾向をたどってきた。こうして川口市は、産業都市から住宅都市としての色彩を濃くしながら今日にいたっている。
 そもそも、かつての川口は鋳物産業を主とする市街地域の周囲は広い農村地帯で包まれていた。現在では、その農村地帯も都市化の波に洗われ、住宅供給地となってきている。これらの農村地帯は、水田又は畑作を中心とする地域であった。しかし、川口におけるこうした農村地帯は、米・麦・野菜類などを中心としながらも、北部の安行・神根方面の「植木」や「苗木」、西部の芝・前川・根岸方面の「綿織物」、青木・上青木方面の「釣竿」、さらに元郷地区の「味噌醸造」などの各種の地場産業を発展させてきた。
 このように川口の産業は、鋳物を中心にしながらも多様性に富んできた。これらの各種産業は、水田・畑作をおこなう農村の生産・生業を基盤として育成され発展してきたものであり、農村地帯を基盤として、営まれてきた地場産業である。(鋳物の場合も、発達の下地は、多かれ少なかれそうした性格をもって発生し、発展を遂げてきたといえる。しかし、鋳物産業は、それ自体がもつ産業的性格と歴史的要因によって他の産業と比較にならないほど多大な発展を遂げ、現在の川口市を規定する中心産業としての役割を果たしてきたのである。)かつては、農村地帯が広がっていた川口が、鋳物を中心とする産業の発展によって産業都市としての性格を持つにいたったのである。
 今日の川口市を地形との関連を見ると、平野部の中でも、農業地域だった場所は人口の急速に増加とともに、住宅・商業地域に変貌していった(川口駅・西川口駅・蕨駅周辺)。それにともなって、産業の中心であった鋳物工場の多い地域でも、景気の衰退もあって、マンションなど変化してきている。一方、平野の農業地区の中でも、南平地区には工業団地もつくられ、工場が多く分布している。平野の中でも、最も新しく開かれた東川口駅を中心とした地域は、新興の住宅地域として発展してきている。
 台地上の農業は、平野部とは対象的に植木を中心に発展し、安行を中心とした地域に植木畑が広がり、植木・苗木・鉢植えの草花などの栽培がおこなわれている。さらに周辺地域にも広がりを見せている。しかし、住宅地が広がりつつある現状は、平野部と同じであり、植木畑と住宅地が混在する景色が広がっている。
4.川口の農業
 川口の農業は、低地帯の稲作と台地の畑作に区分できる。また、それぞれの低地帯を形成する要因となった各河川は、灌漑や運搬などの水利にも利用され、さらに農業を活発なものとしてきたと考えられる。
 台地の畑作地域は、かつてその地域ごとに色々な作物を栽培していたが、第二次世界大戦後からの急速な植木・苗木の需要の増大によって、安行周辺地域では植木・苗木・鉢植えの草花などの栽培に移行する農家が増えてきた結果、今日では、安行地区だけでなく、神根・新郷などの地区にも広がっている。この安行を中心にした植木業は「安行の植木」として全国的に有名になり、「川口の鋳物」と並ぶ代表的な産業となった。(その中、ぼうふうやしょうがなどの野菜もつくられている『かわぐち』より)
 一方、低地の稲作地帯は、都市化の進行によって宅地化が進み、市街地よりの低地から次々に水田が姿を消してしまっている。
 ※)「畑作の中心は、大麦・小麦・甘藷・里芋などが昔から盛んであった。」 (『武蔵国郡村誌』より)
5.鋳物産業
(1)川口の工業の概要
川口の諸産業は、江戸時代以降大消費地江戸を間近に控えての特産品産業として発生した。すなわち、鋳物は江戸時代初期から始まり、植木などの換金作物は中期、織物・染物・釣竿・味噌などは末期より生産が拡大した。
 これらの諸産業は、農閑余業としてそれぞれ地域的特性を背景に発展したものである。そして、現在の川口市を形成する上に大きな役割を果たしてきた。
 今日の川口市の産業の中心は、機械・金属などの重工業で、現在では工場数3,223、工業生産額は年間約8,900億円にのぼり、県下の他県を圧倒している。とりわけ鋳物は、明治以来現在にいたるまで川口市の重工業の中心として、他に抜きんでた生産高を上げてきた。  
 ※)『川口市勢要覧』平成11年版(川口市)による
(2)鋳物の歴史                   
 川口になぜ鋳物が発生したかは、明らかにされていないが、荒川や芝川などの砂や粘土、運搬の便、消費地江戸との近接などの好立地条件のため発達したと考えられる。これは他の諸産業と同様に特産品産業の一つとして農業の副業的な存在から発展したものと考えられる。
 江戸時代の鋳物業は小規模な手工業であったが、明治に入ってから著しい発展をとげる。それは、政府の富国強兵政策によって鋳物業が基幹産業として重要な役割を担うことになったからである。日清・日露戦争を契機としてその需要に応えるために軍需品製造に重点を置き、空前の活況を呈し、川口鋳物の名声は全国に聞こえ、その地位を確立した。     鋳物工場の分布『かわぐち』より
 その後、第一次世界大戦から太平洋戦争終戦までの間には、川口の鋳物業は生産額・技術面・製品面に飛躍的な発展をとげ、名実共に「鋳物の川口」といわれるようになった。
 終戦後の混迷は川口の産業界を一時虚脱状態にしたが、朝鮮戦争を機に復活し、再び盛況を見ることになった。しかし、オイルショック以降不況に見舞われ、衰退が始まった。工場用地がマンションになるケースが表れきたのもこのころからである。
 今日、川口の鋳物は、新たな技術・製品の開発に取り組んだ結果、全国的にも見直されるようになり、あらたな発展の歴史を築こうとしている。
 こうして、明治維新以来の国の政策の下、川口は鋳物を中心とする重工業は、現在の川口の産業都市の性格基盤・地理的配置を形成してきたといえる。
言い換えれば、産業都市川口の工業は、その起源を鋳物工業に端を発し、機械工業などの多彩な企業の発展をうながし、京浜工業地帯の一角を形成するにいたったのである。
 ※)蛇足ながら、幕末の動乱の中で勝海舟の指示により川口の鋳物によって大砲が作ら   れている。復元された大砲が川口駅西口リリア前に展示されている。
 
6.川口市域の拡大
 鋳物を中心とした工業と植木を中心とした農業とは、川口市がもつ多様性の一端を示すものである。そのために、それぞれの地域によって違った景観をなしてきたのであるが、今日、宅地化が進むなかでその特色も失われつつある。
 現在の市域の始まりは、日光御成街道(現国道122号線)沿いの本町・金山町であった。その後、東北線の開通にともない、明治43年に川口駅が開設され、鋳物を中心とした産業都市として飛躍的な発展をとげることになった。そのため、大正から昭和初期にかけて川口町及びその周辺の横曽根・青木・南平柳の各地域が、大幅な人口増加を見せている。昭和に入って、8年には一町三村(川口町・横曽根村・青木村・南平柳村)が合併して市制をしき、人口45,582人となった。(この時の工業別人口を見ると、工業関係が57%を占めており、川口が産業都市の方向へと発展していることがわかる)
 さらに昭和15年には一町三村(鳩ヶ谷町・新郷村・芝村・神根村)が合併し、大幅な人口増が見られる。(しかし、昭和25年には鳩ヶ谷町は分離し、現在に至っている)その後、安行村と戸塚村が合併し、今日の川口の市域が形成されたのである。
 人口の変遷をみると、昭和30年代後半から急激な増加が見られる。川口でただ一つ残された田園地帯であった戸塚地区も、武蔵野線の開通(昭和48年)後、急激な宅地開発
が進められ、景観が急激に変化してしまった。
 昭和45年30万都市となり、その後徐々に人口増加率が低下しているといわれるが、現在、46万人を越える大都市となっている。
 川口の広がり
 
7.課 題 〜21世紀の川口にむけて〜
 人口増加による都市化・ベットタウン化の影響は、多方面にわたり有形・無形のものが考えられる。例えば、かつて村落だったある地域に、たくさんの人が流入してくることによって、その地域の共同体的なまとまりが薄れてしまるということは、よくあることである。また、同時に古くからある風習や慣習といったものが忘れられたりすることもあるだろう。
 さらに、核家族化や地価の高騰による住宅問題や生活環境の悪化、その他上下水道の整備、社会福祉、道路の整備、教育施設の整備、ゴミ問題などなど都市化に伴う問題として、川口市の大きな課題と言える。
 今後の川口を考えたとき、住民同士の融合と協力、地域的な伝統や特色の見直しと保存、「わが街 川口」を愛する心・誇りに思う心などをどう創造していくかが、新たな歴史の歩みの中で、重要な課題となっていくのでないだろうか。
 
参考文献
@『埼玉大百科事典』(埼玉新聞社)
A『埼玉郷土史事典』(埼玉新聞社)
B『埼玉近世史話』(埼玉近代史研究会編・誠美堂)
C『埼玉近代百年史』上・下巻(埼玉近代史研究会編・誠美堂)
D『かわぐち』(川口市教育研究会社会科研究部・中央社)
E『川口市史』(川口市史編さん室)
F『川口市史調査概報』(川口市史編さん室)
G『埼玉ふるさと散歩<川口市・鳩ヶ谷市>』沼口信一著(さきたま出版会)
H『川口市制二十年誌』(川口市)
I『川口市勢要覧』平成11年版(川口市)
J『川口市統計』(川口市統計課)
K『鋳物組合60年の歩み』(川口鋳物工業組合)

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