「校友」創刊号から


   このたび創刊当初の「校友」にふれる機会がありましたので当時の巻頭言と回顧録、後記の一部を

  紹介させていただきます。


  巻頭言    初代校長の村本精一先生 ものです。冒頭の部分は省略させていただきました。


              … 前半部分 略 …

   西中が誕生して四年の歳月が流れた。昨年三月第一期生を最初の卒業生として送り出し、

  いま又第二期生を送り出さんとしている。この時に当たり生徒会事業部の手により校友会誌発刊

  の計画が進められ、過ぎし幾夏の思い出や、各クラブ活動の実績、又先生方や在校生・卒業生

  諸君の感想や研究や文芸作品等を集録して、一つには反省修養の資料とし、一つには将来発展

  への足場とせんとする誠に意義ある企画であることを思い喜びにたえない。この小誌によって卒業

  生と在校生、並びに先生方との心と心の交流が行はれ、卒業生にはなつかしい母校思い出の糧と

  なり、在校生には発奮努力の刺激となって諸君の生長発達と西中発展のためにより大きな役割を

  はたされん事を念願して止まない。                        (昭二六・三・三日 記)
 西中学校回顧録     (この稿も村本先生のものです)



 (一) 発足第一年          ―西中誕生当時の思い出―


  終戦直後の混乱の中に我が国教育史上いまだかってなかった教育制度の大改革

 が行われた。それが六三制と呼ばれる教育制度である。

  本校が誕生したのは昭和二十二年の四月であった。

 飯塚と仲町の両小学校区を学区として生まれた新制中学校である。川口市立西中学

 校と命名された。五月一日には両小学校の卒業生三百四十一名が第一期生として

 入学してきた。希望に胸ふくらませて入学して来たものの校舎もない机や腰掛もない

 教科書もない先生も足りない。これが当時の実情であった。一年前に発足した川口

 女子商業学校の校舎(現在教育委員会事務局)の三教室飯塚小学校の四教室を

 借用し、入学当初の数ヶ月は何もない教室の床の上に腹ばいになって勉強したもの

 である。

 そのような困窮の中にあっても生徒も先生方も大きな希望に燃えてなんとかして良い

 学校になりたいと互いに励まし合って努力したものである。校長が兼務であったため、

 西中と女子商業とは一体の形で学校が運営された。両校の先生方も生徒も互いに

 協力し合ってよくやってくれた。人の和の力があらゆる困難に打ちかって実績も相当

 までにあがった。それがみとめられてか昭和二十三年の三月には全国最初の文部省

 モデルスクールとしての指定を受けた。校舎も新しい規格で、文部省が直轄工事で建

 てゝくれるとの話しであった。私の教員生活二十年間にこんなうれしいことはなかった。

 このことを報告した時の生徒のよろこびの姿が今でも目に浮かぶ。



  (二) 第二年目    ―混乱間借り生活から希望の新校舎へ―


  翌二十三年四月には第二期生四百五名の新入生を迎えた。生徒数は七百四十六名

 になり十五学級編成になったが教室は七つきりない。中学校の教科課程は二部授業

 ではこなせない。そこで昇降口や階段の下或いは廊下の隅等あらゆる空間を利用して

 急造の教場として困窮の中にも最大の効果をあげたいと努力した。−文部省直轄工事

 のモデル校舎の落成を楽しみに待ちつゝ−しかし当時の社会情勢はそう簡単に校舎

 が建つような時期ではなかった。昭和二十三年の四月、起工式の折には高松宮同妃

 殿下ご来光の栄に浴し、九月には第一期工事の上棟式が行われ、翌二十四年三月、

 三棟三十六教室の新校舎が落成した。本校と分校、苦しい間借り生活、鶴首して待っ

 ていた新校舎の落成、よろこびいさんで引越して来た当時の情景は今も記憶に新た

 なるものがある。学校のよい悪いは校舎だけではない。生徒が立派であるかないかが

 第一の条件である。校舎の立派さに負けないよう、此の校舎を大切にして勉強しようと

 互いにいましめあい励まし合ったものである。此の年はあまりにも参観人が多かった。

 一年間に一千人以上の参観人あり全国都道府県中参観に来ぬ県は一つもなかった。

 特に二十三年九月から二十四年三月の間に東京に開かれた全国教育指導者講習会

 員(教育長、指導主事)の連続的な参観には閉口した。いつもそのたびに米人講師が

 数名来られたのでずいぶん気をつかったものである。こんなことでまさに名前だけは

 全国的に知られ日本一になったかもしれない−先生方にも生徒にも随分御苦労をか

 けたものである。



 (三) 第三年目      ―完成期―


  昭和二十四年四月第三期生四百七名が入学してきた。此の年が一応完成期である。

 生徒数も職員数も三年目を迎えて三倍になったわけである。

 生徒総数千百五十三名、学級数二十三、職員数三十六名校舎は新しい教卓は充分とは

 いわぬまでもこと足りる一応安定したのは発足以来三年目であった。此の年の四月再び

 高松宮殿下のご来光あり、宮家から三代記並に有栖川総記等立派な図書を頂いたことは

 光栄の至りであった。

  秋には堤外に一万坪以上の大運動場が完成し学校も次第に整ってきた。二十五年三月

 はじめて第一期生を卒業生として送り出した。一番困難な環境の中で一番苦労して育って

 来た一期生にはどこか頼もしい、嵐がきても簡単には吹きたをされそうもない根強いものが

 ある様に感じられるものがあってうれしかった。

 卒業生三百十八名中三十三%が上級学校へ、四十八%は就職戦線へ、十九%は家庭

 或は家業へと進出して行ったこれら卒業生の前途に幸あれと祈りつゝ送り出したもので

 ある。



 (四) 第四年目     ―学校の整備期―

  本年度は新入生四百二十九名を迎へ、生徒数千二百五十二名、職員数三十七名の大

 世帯となった。堤外の大運動場には後援会有志のお陰で野球場も出来上がり二十五年

 末には六コース二十五メートルのプールも完成し夏の来るのを待っている。本年二月初旬

 には待望の第二期工事に着工し、音楽堂、家庭科室等卒業式には間に合わせたいと努力

 している。本日ここに西中四カ年と回顧するとき多事多難は歳月の流れであったと思う。

  此の間における生徒並に先生方の努力に敬意を表し、同時にPTA並に後援会の方々の

 学校の建設運営に対する御協力に対し感謝の誠を捧げ今後名実兼備の西中として着実

 な歩みを続けていくよう努力する誠意を披瀝して今後のご指導御協力を御願いする次第で

 ある。                                 (昭 二十六、三、三日)




内藤正先生による後書き


 後になって見ると簡単なことでも、最初に考えることは尋常なことでは

ない。世に発明発見等をした人を先覚者として敬するはここにある。校友会

誌も前々から計画はあったが、最初のことであり、実行に着手するには色々

な困難があり、一日一日と延びてしまった。何とか総員努力して立派なもの

を完成しようと決意して以来、校友会報道部の諸君は連日活動し、先生も

校友会編集委員が選出されて、教師生徒一体となり原稿取りや校正整理にと

寝食を忘れ東奔西走した。

 努力の効は見事な原稿が山と積まれ、次はいよいよ孔版社の腕を待つように

なったところ、最初はどうかと思われた原稿が予想以上に集まって予定の頁数の

倍になると云う喜ばしき悩みに当面した。削除しようか、如何にするかと頭を集めて

考へた末、集まった原稿は全部のせようと決定した。


                 …中略…


 校友会誌も創刊号以後、数を加える毎に増々充実したものが永続発刊され

ることを望んでやまない。荒川の流れと共に、いつまでも、いつまでも光栄

あらんことを切望して筆をおく。         昭和二十六年三月十五日



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  創刊以来60年に及ぶ「校友」の出発点がここにある、という思いです。

 現在の西中の原点というべきもの、そして歴史の重みが感じられます。

                                   (平成20年3月19日 記)





 昭和25年当時の西中の風景です。二階建ての木造校舎です。(1枚目)

 2枚目は当時の体育祭。

3、4枚目は開校からしばらくしての設備の充実してきた西中です。